富士高天原

宮下文書と古事記

             

一般に日本の古い歴史について記載されている書物としては、古事記が代表される。この古事記とは、40代天武天皇が編纂を思いつき、43代元明天皇の時にやっと完成した。西暦712年(和銅5年)正月28日と言われている。
この書物は最初に太安万侶による序文がつけられているため、彼が編者ではないかといわれている。その内容は、上、中、下の三巻に分けられており、上ー神が地上に降り立った時から天孫降臨まで(神の時代) 中ー神武天皇から第15代応神天皇まで(神と人の時代) 下ー第16代仁徳天皇から第33代推古天皇まで(人の時代)となっている。
しかし、古事記は中巻の神武天皇の後2代綬靖天皇から9代開化天皇までが何の内容も記載されていないため、(欠史八代)一般には、これは天皇の権威をつけるために後から書き加えたもので、神武天皇の存在すら架空の事と言う人さえいる。
また、神武天皇がニニギ尊の孫になっており、51代続いた九州の王朝「宇茅葺不合尊」が一代となってしまっている。すなわち2700年間が欠落してしまっている。これは九州に都を移す時、神皇は代々この宇茅葺不合尊を名乗ることとしたためだろう。私達はこの欠落の歴史で勉強をしているのだ。 

さらに、10代崇神天皇の時不思議な記述がある。それは大物主命の子孫が天皇に指示して、奈良県桜井市に大神神社を建設させ、自らの子孫を神主にしている事だ。これは天皇より上に立つ者の存在を意味する。もちろん、これは前述の宮下文書を見れば分かるように、この時天照大神の御神霊が富士から奈良に移されている。富士高天原の権威が伺える。こうして宮下文書を読んでから古事記を読めば理解しやすい。
一方、日本書紀は古事記の書かれた八年後(720年5月)成立した。こちらは古事記の物語調と違い歴史書的だが、共に共通したものが多い。 古事記の上巻の中で、イザナギ尊に最後に出来た子供が三貴子と呼ばれ最も尊い神として扱っている。その三人は天照大神尊、須佐男命、月夜見命(神々の名称は当て字のため書物により異なっているので、便宜的に分かりやすい表現にしている)であって、共に重要な神々である。しかし、古事記は最初に三貴子と呼びながら、その内月夜見命の事が一切書いてない。この理由は、九州に王朝が別れて以後、富士高天原は月夜見命の子孫が継いでいるからであろう。だから、九州王朝を源とした大和朝廷の記録には月夜見命は登場しないのだ。

このような矛盾点や欠史によって、古事記を架空の物語として扱う人が多いが、内容を見ると不明確さはあるが、正式な日本の古代史と言えそうだ。 さて、宮下文書はどうでしょうか。紀元前210年頃(七代孝霊天皇の時代)中国秦の国から日本に帰化した徐福の編纂によるものと言われている。これはほぼ間違いなさそうだ。何故かというと、冒頭に徐福の家系(徐福は日本の神と同じ高皇産霊神の子孫)や、日本に来た時の同行者全員の名簿まで書いてあるからだ。 この名簿は貴重な史料だ。その名前を見ると、いまの日本人と変わらない、男性は戸山や義正、女性は真津女や富美女等。これは徐福一団の子孫が現代日本人に占める割合の多さを意味しているからだ。また、徐福の子供は長男福岡、二男福島、三男福山、四男福田、五男福畑、六男福海、七男福住を名乗った。これらの姓の日本人は徐福の子孫と言えそうだ。
とにかく、今から2200年も前の人の名簿の存在自体大変な事だろう。それも秦徐福一家12人、同行者老人男分35人、老人女分45人、妻有人男分138人、夫有人女分145人(内7人後家),若人男分41人、若人女分43人、幼人男分51人、幼人女分48人、合計558人全員の名前が書いてある。 それだけ徐福の日本渡来は日本の歴史上重大な出来事なのだ。世界最古の歴史書といわれる中国の「史記」でも今から2000年前のものだ。これからしても、宮下文書の重要性が分かる。

宮下文書にはいろいろな史料がある

宮下文書(別称富士文献)と言われる巻き物にはいろいろな史料がある。その中心となるものは「徐福十二史談」と呼ばれるもので、高天原の三十六神家に伝わる口説、口講、伝言や記録を十二編にまとめたものだ。前項の「高天原の歴史」はこれを基にかいてある。

この他に徐福が中国から持参した「震旦国(中国)皇代暦記」という中国古代史料がある。この内容は大変興味深い。中国の祖神炎帝神農氏(高皇産霊神)から始まる各時代の皇帝名から、その時代の出来事まで書かれた史料で、日本の宮下文書と同様の古代史料である。なんと中国の古代史料は秦の始皇帝による処分を逃れるため、徐福が日本に持ってきてしまったのだ。 一般に、徐福は日本に不老長寿の仙薬を求めて来た(長寿王国参照)と言われているが、これは始皇帝を欺くための口実で、中国皇統一族の歴史を守るため、祖国日本に亡命したのだった。これが今から2200年前の知られざる日中関係の現実だったのだ。

そして徐福は、日本の古代資料と中国の古代資料両方をもって宮下文書の編纂をおこなったのだ。また徐福はこの他にも孔子の諸作の書物も中国から持参しており、これは阿祖山太神宮の宝物となっていたが西暦800年の富士山大噴火で焼失してしまった。残っていれば世界的な遺産となったであろう。
徐福の中国から持参した「震旦国皇代暦記」のなかに興味深い記述があるので紹介しておく。時はニニギ尊(今から5400年程前)の頃。宮下文書にも書いてあるように、九州に中国から侵略があった時の記録だ。 中国の記録によると、炎帝神農氏から6代帝舜有虞(ウグ)氏の時。「州元の須弥蓬莱山島の豊阿始原瑞穂の国(古代の日本国名)は、全世界の祖国なるによって、大陸国に付き置き給うとして、大軍をもって度々これまで攻むれども一度も勝たず、大軍皆滅亡し給うによって、大王有虞氏大いに怒って本婦をはじめ、婦人七人召し連れ、大舟三百六十船を造り、大軍を従え、東海に押し出し、大いに戦えども、全世界開闢の祖祖神止まります蓬莱山(富士山)に黒雲現れ、神風吹き来たり、大爆風のために、大王ならびに婦人等をはじめ、大軍皆海の藻屑と消え、皆滅び給うなり。

これまでを中国は開闢より、三皇五帝と申すなり。
この須弥蓬莱山島、豊阿始原瑞穂の国は全世界開闢の祖祖神の止まり座ます御国なるによって、祖祖神方の神罰なりと、大陸を始め、四方の諸々の国人皆恐れ給うなり。」との内容だ。 日本はもの凄い国で世界から恐れられていたようだ。この有虞氏の死により中国は新たな国王が立ち、「夏」国が出来たと記録してある。

宮下文書と古事記の関係

古事記の書かれた(西暦712年)のおよそ920年前(紀元前210年)に書かれたのが宮下文書。当然の事だが歴史資料は前に書かれた方が正確に決まっている。しかも宮下文書は徐福の後もその子孫によって加筆されて、西暦1400年頃の南北朝時代の末期の記録で終わっている。最後は「これにて高天原復興の事終わる」の言葉で締めくくってある。紀元前210年徐福来麓以来、1600年に亘る高天原復活を願う執念の記録書といえよう。

このため、紀元前210年以降の出来事も記録されている。古事記との関係まで記録されているのだ。ここが宮下文書の凄いところだ。それによると、西暦589年富士山七社大神宮の宮司宮下記太夫元照のもとに、厩戸皇子(聖徳太子)が朝廷より勅使として派遣されてきた。皇子18歳の時だ。この時皇子は神社の宝物である徐福が集大成した日本国の創建時代にまつわる諸々の書物(宮下文書)を見せられた。初めて見聞する書物に皇子は驚嘆し、その事を自らの日記に記した。と元照は記録に残している。

皇子は徐福伝の書物の書写を思いつき、学問の分かる青少年をさがした。それが秦河勝であり、皇子に同行した。そして「天皇紀」「国記」「旧事紀」を編纂した。ところが、35代皇極天皇の時(西暦645年)7月10日、大臣蘇我蝦夷は、息子の入鹿を殺害された悔しさに、聖徳太子が編纂した「天皇紀」「国記」「旧事紀」を入れ置く宝庫に火を付け焼き払い自殺した。これにより、神代開闢の始めよりの諸々の物品、書類全てを焼失してしまった。
そして、西暦712年、天武天皇の命により再編纂されたのが「古事記」なのだ。だから古事記には欠落部分が多いのだ。従って、宮下文書を読んでから、後に書かれた古事記を読めば日本の歴史が良くわかる。逆に古事記の先入観で宮下文書を読むから異なる部分が、嘘であるになってしまうのだ。古い書物から順番に読むのが一番良い。

これらの書物により、今から約6400年前からの日本の歴史で空白の時期が無くなった。いつの時代も神(天)皇の名前も分かり、大きな出来事は大体分かる.日本国は世界最古の国家であり、全世界開闢の祖神の国である事が実証される。勿論、宮下文書は世界最古の歴史書となる。 ところが、未だ全文を解読した人がいないという。別に難しい文字でもないのに。日本の実史である事は間違いない。偽書などと言わないで、早急なる調査が必要ではないだろうか.西富士オートキャンプ場には宮下文書を実証する数々の遺構があるのだから。

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