古代史の文献として「宮下文書」というのがあるが、これは富士吉田市に在住の浅間神社宮司宮下家に代々伝わる古文書で、これには9千年に渡る人類の歴史が書いてある。 誰が書いたか不明のため、2300年前中国から来た除福が書いたとか言われているが、実はこの文書、南北朝時代の事まで書いてある。 またこの記述をもとに調査した結果、その記述の場所に証拠が未だに残っている。 と言う事は、この文書は真実の記録かもしれない。 これこそ[日本の正史」かもしれない。 世間に知られた「古事記」や「日本書紀」と言った古文書は抽象的な表現が多くそこに書かれている話は、夢物語の様で現実として捉えられていない。 しかし宮下文書は違う、具体的に書かれており、登場する神々の系譜から地図まで示されている。
その内容は膨大なものだが、ここに簡単に人類9000年の歴史を整理してみた。 これは加茂喜三先生の(富士市在住)の研究に基く著書[日本の神朝時代」「木花咲耶媛の復活」[隠れ南朝史」(共に富士地方史料調査会発行)を参考にした。
最初の神(記述では神とは神と言われた人々となっており、人間とは区別されている)はペルシャの北方より始まり、その名を「天之峰火雄神」と呼ばれた。 此の地はノアの箱舟の伝説の船が発見された、トルコとイラン国境にあるアララット山の場所と一致する。 すなわちこの神はノアではないか。 こう考えると聖書の話と通じて来る。
神々は此の地においてまず[五色の人」を創造した(竹内文書による)これには822年を要した。 この時代を第一神朝時代と呼ぶ。 さらに1850年間、神々は此の地に留まり、人類が生きて行くための環境整備をした。 この時代を第二神朝時代と呼ぶ。 神々は2672年間ペルシャの北方に留まった。
今から6400年程前、神々は世界各地に別れた、まず「高皇産霊神」の7人の皇子が世界に別れた。 その皇子の内二人「国常立尊」と「国狭槌尊」が父の「高皇産霊神」と共に日本の富士山麓に来た。 これが日本の国の始まりであり、「神の国」の由来だ。 この日本の国造りは第三神朝時代と呼び、合計7代の神皇で507年間続いた。
第三神朝最後のイザナギ尊が死去すると、その後継ぎ問題が発生した、イザナギ尊の子供としては、長女の天照大神尊と弟の月夜見命、 さらに従弟の栄日子命(本来は長男だったが、足の無い障害があったので早くから高天原を出て伊豆の淡島に竜宮を築き海の神となった。 その後竜宮は現在の西湖付近に移された。 竜宮城の乙姫は彼のひ孫の豊玉毘女命で、竜宮城の話は、豊玉毘女命とニニギ尊の子の火々出見尊との間の実話だ)がいた。
本来なら長男の月夜見命が皇位につくべきなのだが、姉の天照大神尊が大変聡明なため弟の月夜見命は姉にその座を譲ったが、姉の天照大神はなかなか引き受けなかった。 そのため、月夜見命は「私がいるから姉が引き受けないのだ」と思い、高天原を出て、富士山南麓にあった白玉池畔の家司真ノ宮に隠れてしまった。
この白玉池だが、これは現在の富士浅間神社本宮にある湧く玉池と言われているが、 これは木花咲耶媛尊の富士山自殺による噴火で出来たもの、その祖父の月夜見命の時には湧く玉池は無かった。 白玉池は別の場所で、富士市比奈の竹取塚の近くに湧き水の池があったので、そこの可能性が高い。 木花咲耶媛尊生誕の地が竹取塚なので此の方がつじつまが合う。
此の事により、天照大神尊は皇位の座に付き、今までの「高天原ノ世」を「豊阿始原ノ世」と改めその一代神皇を称した。 此の時代は第四神朝時代で5代488年間続いた。
尚、月夜見命は国狭槌尊の長男泥土煮尊第一王女桜田毘女命と結婚して8人の王子が生まれた。 彼等が八王子で、現在も富士南麓に八王子の地名が残っている。 八王子は名前に全て山が付き、その長男が大山津見命でその子供が木花咲耶媛尊になる。
月夜見命は、天照大神尊が昼の世界を担っていたので、その裏に当たる夜の世界を担当した。 後に皇居近くの加茂山に隠居する。 加茂山とは、現在の富士宮市にある天母山と思われる。 此処からは沢山の遺跡の石が見つかっている。 また8人の王子は山の神として、日本全国に別れていった。 これが八王子の地名が全国にある由来だ。
こちらで「月夜見命の系譜」が見られます。↓
天照大神尊の基に繁栄を続ける高天原に一大事が起った。 朝鮮半島から高皇産霊神のひ孫にあたる多伽王と言う神が高天原に攻め込んで来た。 多伽王は皇居内でさんざんの悪さをしたため、之を怒った天照大神尊は天の岩戸に隠れてしまった。 天照大神尊が岩戸の中に入ったため、この世は闇となり、諸国の神々は大変困ってしまった。 そこで、天照大神の従兄弟にあたる天ウズ女命が裸になり、青木の葉を付けて火処(秘部)を打ちながら「ヒフミの歌」を歌って踊った。 その様子があまりにも面白かったので、神々は大喜び。
その騒がしさに天照大神が何事かと岩戸を少し開いて覗いたところを、力持ちの手力男命が岩戸を開いて、大神を外に出し、皇居に戻ってもらい、世間は明かりを取り戻した。 之が天の岩戸開きの実際と思える。 此の時の様子を書いた絵が信州戸隠神社の中社にあるので見てみると良い。
一方多伽王は高天原で散々悪さをした挙げ句、手力男命に追いつめられ、岩陰に身を隠そうとしたところ、大きな岩の隙間に挟まれてしまった。 手力男命が言うには、その岩は善人が通ると問題ないが、悪人が通ると挟まれて押しつぶされてしまうとのこと。 (この割岩はキャンプ場内の天の岩戸の横にあって、その構造が解る。面白いので是非見てほしい。今も多伽王が挟まれた時のままになっている。要は一回しか使用出来ないみたい) そこで多伽王は「私には悪意は無い、高天原の繁栄を羨ましく思い、つい悪さをしてしまった。 今は反省しているので、天照大神尊にお願いして助けてほしい」と言って助けを求めた。 そこで、手力男命は岩を開いて多伽王を助け、天照大神尊のもとへ連れて行った。 天照大神尊は多伽王が同じ神の祖先を持っている事を知り、多伽王の罪を許し、自らの義弟として、祖佐男命と名付けた。
祖佐男命はその後全国を平定し、三種の神器を手力男命夫妻と協力して鋳造して、天照大神に献上し、 自ら山陰の出雲(現在の長野県、南アルプスの山陰で雲の湧く地故にこの名がついた)に居を構えて、悪い事をした神の教育を担当した。 その地は戸隠と呼び、これは罪科(トガ)懲治(コラシ)が訛ったものと言われているが、 現地に行ってみると天の岩戸が飛来した地であると記されており、これは字の如く、天の岩戸に隠れた事で戸隠と呼ぶのではないだろうか。
戸隠には天の岩戸の秘密が全て隠されているようだ。 その内容は人類の起源に関わる重要な事項の様だが、調べるにはかなりの時間が掛かる。 これが解らないと「天の岩戸開き」の本当の意味が理解できない。
天照大神の後の神皇は天之忍穂耳尊、そしてその第一皇子ニニギ尊へと継がれていく。 ニニギ尊は高天原で、木花咲耶媛尊と出会い、一目惚れで結婚した。 この話は神話に最初の恋愛物語として登場する。 ロマン溢れる内容だ。木花咲耶媛尊は月夜見命の長男大山津見命と事代主命長女加茂沢媛命との間に、姉の岩長毘女命と共に、白玉池畔の家司真ノ宮に生まれた。 その場所は今でも「竹取物語」の「竹取塚」として残っている。
このニニギ尊の時代に大変な事が起った。 九州に大陸から外敵が攻め込んで来た。 早速ニニギ尊は新婚生活もままならず、妻の木花咲耶媛尊と共に出陣した。 沼津の港に下り、待ち構えていた海の神栄日子命子孫の造った葦の高速船で、大船団をもって九州へと向かった。 到着まで五十三日かかった。
まず陣を構えたのが住防(周防)で、ここで敵の大群を防いだ。 しかし、敵は二手に分かれ、その一方が瀬戸内海に入り、四国へと向かって行った。 そのため神后は夫と別れ、自ら将として猿田彦命を大将に命じ四国へと向かった。 ニニギ尊はさらに対馬、壱岐を守るため手長男命夫妻を向かわせたが、壱岐の石田の原にて戦死する。 石田南山の峰に祀られた。 その子供達も皆戦死、実に3年3月に及ぶ戦いだった。
対馬の方は、事勇男命、事力男命を向かわして戦うが、共に戦死。 かくして事代主命子孫は対馬と壱岐の両島において、病身の一神を残しただけでことごとく戦死してしまった。
一方、九州は武佐太毘古命が奮戦したが、敵の大軍にあって、松浦の地で戦死してしまった。 同所の峰に祀られた。 戦況は日々悪化を告げるに至った。
そこで、ニニギ尊は全国の神々に援軍を募った。 その結果全国から続々と援軍が加わり、戦況は一転、九州は平定した。 四国の方も36日遅れてやっと平和が戻った。 この戦い30年に及ぶ激戦だった。 今から5500年程前の出来事だ。 かくして、日本の国土は多大な神々の犠牲の基に守られた事を忘れてはいけない。 それと同時に日本は5000年以上前の縄文時代から世界に名立たる主権国家だった事が分かる。
話を少し戻して、四国に渡った木花咲耶媛尊の事だが、高天原で娘の苦戦の報を聞いた父の大山津見命が妻の加茂沢媛命と共に応援に行く事になった。 ところが、途中の三島で加茂沢媛命が急死してしまった。 大山津見命は妻をその地に祀り(三島大社になる)急いで四国へと向かった。
戦場での父の応援を受け木花咲耶媛尊は大変喜び、愛する媛と会えたその地を愛媛と呼ぶ事になった。 ところが、幸せもつかの間、旅の疲れもあってか、大山津見命はその地で亡くなってしまった。 最後の言葉「私も妻のところに伊久世」から、その地を伊予と呼ぶ様になったと言う。 この四国の妻の戦いを見るためニニギ尊が四国を訪れた時、妻の木花咲耶媛尊のお腹はまさに臨月を迎えようとしていた。 それを見たニニギ尊は「それは一体誰の子供か」と尋ねたところ、木花咲耶媛尊はその貞操を疑われた事を苦に、直ぐに高天原に帰ってしまった。
帰るや否や木花咲耶媛尊は山の産屋で3人の皇子を出産し、直ぐに富士山火口に投身自殺してしまった。 ここで富士山大噴火が始まった。 流出した溶岩は愛鷹山で二手に別れ、一方は父のいた富士宮浅間神社の湧玉池で止まり、もう一方は三島の楽寿園の近くで止まった。 その溶岩の下からは湧水がこんこんと湧き出し、人々は媛は死んで両親に合いに来た、湧水はその涙だと思っている。 現在も湧いている。
九州で大役を果たして凱旋したニニギ尊は此の事を知り、大変悲しみ病気がちとなってしまった。 これを知った猿田彦命と天ウズ女命がニニギ尊を慰めるために皇居で猿の舞いをした。尊は大変喜び、一時は元気を取り戻した。 この舞いが猿楽として後世に伝えられていった。
しかし、ニニギ尊は間もなく亡くなった。 42歳の若さだった(通常は350歳が平均寿命だった)。 かくしてニニギ尊夫妻、若くしてこの世を去ってしまった。
木花咲耶媛尊の産んだ3人の皇子は、火照須命、火須勢理命、火々出見尊で、後に各々海彦、農彦、山彦と呼ばれた。 彼等が高天原を引き継ぐ事になる。
ニニギ尊が亡くなった後、高天原は後継者問題でもめた。 長男火照須命と三男火々出見尊の間でもめた。 次男の火須勢理命は中立の立場でいた。 この海彦と山彦のもめ事で兄海彦の大事な釣り針を無くした弟の山彦が栄日子命の子孫のいる竜宮に相談に行った話が、浦島太郎の伝説として残っている。
もともと3人は三つ子のため、長男と三男の違いはたいしてなかった。 長い争いの末、火々出見尊が四代目「豊阿始原ノ世」神皇となった。
ところがこの時代になってまたもや九州に外敵が攻めて来た、そこで神皇は長男の武言合尊を五代「豊阿始原ノ世」神皇とさせ、九州の平定に向かわせた。 とりあえず収まったところで、火々出見尊は「高天原が東の富士に有るので、西の治安維持が出来ない」と考へ武言合尊を九州に行かせ「宇家ヤ不ニ合須ノ世」を創建させて、 その第一代神皇として鵜茅葦不合尊と命名した。 九州の神皇は代々この名を名乗り引き継ぐ事と成った。 これによって日本は東西分治の時代に入った。
一方高天原は、後継者争いで中立を保った火須勢理命が継ぐことになった。 時代も新たに「高天原ノ世(後期)」と決めた。 これで日本は二分され、九州は「宇家ヤ不ニ合須ノ世」が、九州以外は「高天原ノ世」が治めることになった。 そして九州の都を神都、富士を天都と呼んだ。天都とは高天原の都の意味だ。
しかし、九州の神皇の「斎祀ノ権」は全て富士が握っており、新たに神皇が立つ時は、自ら富士迄来て、三種の神器の前で儀式を行わなければならなかった。 これは大変な作業で、此のため途中の航海で暴風に合い、亡くなった神皇さえいた。 この東西分治の時代は神武天皇の東征を向かえる迄2740余年も続いた。
この間に九州は大陸との貿易などで栄え、一方富士はだんだんと衰退していった。 此の事が東西の対立を一層深めていく事となった。 また、九州はこの間大陸から何度か侵略を受けたと書かれている。
今から2700年程前、この日本にまた一大事が起った。 大陸から五度目の侵略があり、白木(後の新羅)と周国が一緒になって攻めて来た。 これに国内の反乱も加わり、日本中が争いの渦に巻き込まれた。 「宇家ヤ不ニ合須ノ世」最後の神皇ヤ眞都男王尊は、軍船260隻を配し、皇族を集め出動を命じた。
しかし、この戦いは大変なものとなった、まずは皇太子の五瀬王命が戦死、その後は第四皇子の日高佐野王命(後の神武天皇)に継がれた。 さらに神皇も紀伊半島で陣中にて崩御。神后照玉毘女尊がその後14年間神皇に代わって大政を治めた。 此の時代を「闇黒ノ世」と言った。
この闇国ノ世は13年10月続き、皇太子はやっと終結させた。 戦いの犠牲者は、皇軍が皇族7人、将校38人、兵卒25000余人、賊軍が将校68人、兵卒68000余人、また白木軍15000余人、周国の援兵50000人を算したと言われている。
内乱を平定した皇太子は、神武天皇となり即位した。 この時から天皇は神と呼ばれた神皇を人皇の天皇と改め、神皇から人皇の時代になった。 そして全国を一括して治める事とし、都を奈良の檀原に置いた。今から2660年程前だ。
神武天皇は紀元4年4月、富士高天原に行幸して、そこに眠る大御神を祀られた。 まず、宇津峰山西尾崎山の金山(キャンプ場の岩戸)に鎮まる天孫二柱の御陵の岩戸を啓かせ、 その神霊の宿る霊石を小室の宮守ノ宮(現在の富士宮市の山宮浅間神社で、この霊石は現在もある)に祀られた。 この二柱の神がニニギ尊と木花咲耶媛尊だ。 また中室の麻呂山に鎮まる天照大神尊、加茂山(天母山)に鎮まる大山津見命と別雷命(加茂沢媛命)、 泉仙山古峰に鎮まる猿田彦命、熱都山の笠砂の尾崎峰に鎮まるイザナギ尊とイザナミ尊、櫻山宇津峰に鎮まる高皇産霊神と神皇産霊神、 小室鳴沢の上の菅原に鎮まる國狭槌尊と國狭比女尊の各々の神前において親ら祭祀の礼を行った。 この神々が富士高天原の7社大神と言われる。
神武天皇は富士高天原行幸を終えると、檀原ノ宮近くの富士山が見える鳥見山に7大神を祀った高天原礼拝所を造り、建国の神々の斎場とした。
この上天皇は即位の儀式を富士高天原で行う今迄の慣例を改め、大和の檀原迄「三種の神器」を富士から持参させて、即位式を行った。 これで富士高天原の権威は殆ど無くなってしまった。 そもそもこの三種の神器を天窓に拝して行う即位式は、天照大神尊の定めた重要な神皇としての儀式であって、そう簡単に変えられるものでは無い。 さらに、その後の天皇は次々と高天原の権威を抹消していった。 概略次のように。
(1) 十代崇神天皇の時、阿祖山太神宮(富士)の天照大神尊の神霊を大和に奉遷する。
さらに阿祖山太神宮にあった三種の神器を大和の檀原ノ宮に移した。
(2) 十一代垂仁天皇は阿祖山太神宮の分裂を策し、富士宮市の山宮に「山宮七廟」を創建する。
さらに、天照大神尊の神霊を大和から伊勢国度会ノ宮に移す。
大和朝廷のこうした高天原の権威潰しが続いた。 この事が高天原の神裔を激怒させた。 この時は天下は不作、疫病で乱れた。 高天原を祖末に扱ったから神祖皇宗が怒ったためと言われた。 十二代景行天皇は武力主義で国家統一を企てたので、国民は離反し、全国各地で大和朝廷に対する反旗が翻った。 富士山も大噴火となり国中は不作、疫病で苦しんだ。
日本は不思議な国で、高天原にもめ事があると富士山が噴火し、外国から敵が攻めて来ると必ず神風が起こり外敵から日本を守る。 (過去五度に渡り外敵の侵略を受けたが、毎回富士より黒雲わき起こり暴風で敵が殲滅した記録がある)とても偶然とは思えない。
垂神天皇が高天原にあった「斎祀ノ権」を握ったことで、富士から高天原の呼称が消えた。 これで、国常立尊が栄光負った神々を率い、今から6400年程前に日本列島に渡って来て、富士山麓に「高天原」を建立してから、 「高天原ノ世(前期)」7代507年、「豊阿始原ノ世」5代488年、「高天原ノ世(後期)」57代2741年、人皇10代568年、 合計4304年に亘って続いた「高天原」は、遂に消滅を告げた。
高天原の名が消滅したとはいえ、日本建国の地富士高天原は、その神裔達の手により根強く後世に受け継がれていった。 その後何度か富士高天原再興の動きはあった。
景行天皇の時、東夷と言われた富士山以東、以北の高天原神裔は、阿祖山太神宮に会し、大和朝廷の衰えを見て、今こそ神都復活の好機なりとして挙兵を決した。 これには孝霊天皇の時に中国秦の国から日本に帰化した除福(長寿王国参照)の四世福仙が軍師として参加した。 一方朝廷は之に対し、景行天皇の皇子日本武尊を向かわせた。
天都高天原の玄関口に当たる田子の浦の防衛に当ったのは、阿祖彦王の第一王子阿始長男命だった。 日本武尊は海上から田子の浦に入り、浮島ケ沼(浮島ケ沼は愛鷹南麓に広がる海中の島原で現在沼津から富士にかけて田圃になっている)から上陸してきた。
それを最初から想定していた阿始長男命は八方から沼の枯れ葦に火を付けた。 猛火は日本武尊を包んで、日本武尊は焼死したかに見えたので、これであっさり日本武尊を討ち取った思い油断しているところに、 葦の茎を空気筒にして水中に潜んでいた日本武尊が突然現れて来た。 阿始長男命は逆襲され、遂に自刀してしまった。
第一戦に負けた阿祖彦王は本拠地、富士宮市山宮に陣を構え、富士王朝の命運をかけて戦いに臨んだ。 しかし、結果は王子の阿始長男命と同じ運命だった。 かくして富士王朝はまたもや日本武尊によって滅ぼされてしまった。
しかし、これによって富士王朝が無くなる事はなかった。 日本武尊と熱田より同行して来た妃の美夜受媛が産気づいて王女が産まれた。 福地媛と名付けた。 日本武尊は更に東征するため、この母子を阿祖山太神宮大宮司記太夫男命に託した。 記太夫男命は王妃と王女の為に新宮を皇居のあった阿太都山の麓に造った。 阿太都山の麓なので「坂下ノ宮」(サカオリノミヤ)と称した。 (ここは丁度キャンプ場のある場所で実際にここの地名は大字内野字坂下と呼ぶ。 地主の佐野家のある場所が800年を上回る老松や池があり、跡地と思える)
日本武尊は奥羽攻めの後、高天原に戻り、王妃と王女に再会した後、また信濃,尾張と戦いの旅を続け、遂に三重で亡くなって、都に凱旋することは無かった。
記太夫男命に養育された福地媛は記太夫男命の養子の佐太夫男命と結婚した。 佐太夫男命は実は月夜見命72代阿祖彦王第二皇子で、記太夫男命の養子になって難を逃れていた。 ここでまたもや朝廷の血統が富士王朝に入った。 この二人の間には二人の王女が産まれた。 姉を気久野媛(菊野媛)妹を女登利媛(女鳥媛)と呼んだ。
姉は富士に来麓した応神天皇の王子大山守皇子と結婚し、妹は大山守皇子の弟の隼総別皇子と結婚して、それぞれ富士に来てしまった。 月夜見命と日本武尊の血統はこうして富士に残された。
富士王朝の血を受け継いだ大山守皇子は富士入麓を決意した。 大山守皇子は応神天皇の第一皇子なので大変な事態となった。 大山守皇子の乱の始まりだ。 富士川を境に両軍が向かい合った。 富士王朝側には大山守皇子の他に二人の応神天皇の皇子も加わった。 なんと朝廷の皇位継承権のある皇子は、後の仁徳天皇ともう一人を残し三人が富士に来てしまったのだ。
この戦いは勝敗が容易に決せず、そこで和議となった。 内容は「①大山守皇子を朝廷側に引き渡す事②朝廷軍は山宮から撤退し富士川の西に移る事」。 これ により富士王朝側は大山守皇子の身代わりを立て、その首を持って差出し、一応の決着がついた。 そして、大山守皇子は「宮下」と名前を変えて阿祖山太宮司となり、高天原の復活を願っていった。 これは現在迄引き継がれ、この史実を記録したものが「宮下文書」だったのだ。 故に、この記録こそ日本の真実の歴史と言われる理由だ。
しかし、その後の富士王朝も平穏にはいかなかった。 桓武天皇の延暦19年(西暦800年)富士山は未曽有の大爆発を起こした。 これによって、富士山麓にあった高天原の阿祖山太神宮は一瞬にして消失、埋没あるいは流出して、 610余社と言われた由緒ある神殿はことごとく消えて、神都は遂に壊滅してしまった。 まさに日本のポンペイとなった。
この富士山大噴火は高天原の終焉を思わせた。 しかし幸か不幸か、この時阿祖山太神宮の首脳者349人は、伊勢皇太神宮との和解のため伊勢から奈良に向かっている途中だった。 しかし、難を逃れた一行は、朝廷の企みのため暫く都に足留めさせられた。 それは朝廷が坂上田村麻呂を富士に仕向けて、これを機会に富士王朝の壊滅を企てるためだった。
坂上田村麻呂は富士にある神社を全て浅間神社に統一して、木花咲耶媛尊を本尊とした。 さらに阿祖山太神宮は相模の寒川に引っ越しさせ、神裔をそこに追いやってしまったのだ。 (これは坂上田村麻呂も高天原の血を引いており、富士の殲滅を朝廷より命ぜられたが、内緒で神裔を別の場所に移した。) こうして何も富士には無くなってしまった。
これで富士にあった高天原は歴史の記録から完全に消え去っていった。 今から1200年前の話だ。
しかし宮下文書にはまだ記録がある。 西暦1333年、後醍醐天皇が入麓してきた。 南北朝時代の始まりだ。 一般的には、後醍醐天皇は吉野に居たことになっているが、実際には高天原のあった富士に入麓し、隠れ南朝として高天原の復活を目指した。 その影響は現在に迄及んでいる。 その記録と共に末裔達は現在も伝承を守り、秘密とされている。 その真っただ中に私が来てしまった訳だ。 東京から脱サラしてこの富士に来て18年、変な事の連続だった。 歴史が大嫌いの私がこの様な文章を書かなければならないのも変でしょう。
話を元に戻して、後醍醐天皇を富士におつれしたのは佐野源左衛門尉義正という人物。 この人こそ富士高天原の神裔だ。 佐野氏はまず現在の山梨県南部町の佐野に仮宮殿を造り、一時天皇を匿った。 その後、富士の西麓に本殿を造り(現在の田貫湖付近)お招きした。 引っ越しの時、北朝の今川勢に見つからない様、天子ケ岳を超えて入麓した。 目印しとして高く煙りの狼煙を焚いた。 この風習は現在も引き継がれ、家が新築されると、「火伏念仏」として狼煙を焚く。
仮宮殿のあった佐野の館跡は、ダム建設によって天子湖の湖底に沈んでしまったので、今は見る事は出来ない。 村の人の話では、館跡は保存されていたと言う。 一方本殿の方は田貫湖畔に今も田貫神社が残っており、大きな松や杉の老木が当時を偲ばせる。 田貫とは南朝の末裔田貫親王のことだ。 これらの記録は当地の佐野家に今も保存されている。 それには、天の岩戸の事迄書いてある。 キャンプ場の天の岩戸は本物だ。
ここで重大な事が判明した。 天皇即位の時に使われる三種の神器を南朝が持っていたと言う事だ。 神器は一度は北朝に渡したものの、北朝が南北交互に皇位につくという約束を守らないため、南朝は神器を持ち帰ってしまった。 そして南朝の滅亡と共に行方不明となってしまった。 これでさぞかし北朝は困ったかと思いきや、三種の神器にはいざと言う時のため、その予備が用意されており、それで何とかなったのだ。
南朝は四代の天皇の後、度重なる北朝の南朝潰しに合いながらも、隠れ南朝として富士に存在した。 しかし、南朝最後の尹良親王は、御所を富士から三河に移すために、甲斐と信濃の北回りで移動中、信濃伊那谷大鹿村で土民の襲撃に合い、自害してしまった。 これが南朝の最後となってしまった。 今も長野県大鹿村の信濃ノ宮神社にその跡を見る事ができる。 ここには不思議な塩の湧き出る場所がある。 現在も湧き続けている。
ところで、この時南朝を警護してたのが武田家。 三河で御所の準備をして親王を待ってたのが徳川家(松平家)だ。 松平は本来群馬県尾島町の世良田にいた徳川(南朝の世良田親王の子孫)が名前を松平に変えて、三河に潜入して準備をしていたのだ。 これが家康の代になってその事を知り、元の徳川に名前をかえた訳だ。
南朝を守っていた近衛兵「佐野の千頭の騎馬部隊」は親王の死後、その意志を継いだ武田家に仕えた。 だから武田信玄は強かったのだ。
こうして富士高天原復活の願いは、武田信玄そして徳川家康へと引き継がれて行った。
長い記述になったが、やっと結論に持っていけた。 武田信玄埋蔵金、徳川埋蔵金、高天原と天の岩戸の関係が理解して頂けたと思う。 武田信玄は富士高天原の歴史を伝えるためと、その復活を願い、埋蔵を行ったのだ。 だからその埋蔵場所は重要な意味がある。
まず本丸口だが、これは南朝の本丸入り口というよりは、高天原皇居の入り口の可能性が強い。 高天原時代の宮殿は「穴宮」と言われるものが多く、地下宮殿だった事も考えられる。 実際、武田信玄埋蔵金の埋蔵を担当した穴山梅雪の下部の居城は幾つもの地下トンネルで出来ている。 名前からしてそうではないか。 この本丸口とは田貫湖の丘の南端の大きな岩がある場所がそれらしい。 その岩を叩くと入り口が開くと秘文に書いてある。
辰の口は何度も紹介している様に、キャンプ場にある「天の岩戸」に間違いない。 実際に秘文どうりに岩を叩いたら、大きな岩が動いて岩戸が開いたからだ。 この岩戸は神々の時代の色々な秘密を持っている。 むやみに動かすと大変危険な事が分かって来た。
戌の口は天照大神尊の中室の陵の可能性が強い。 これも以前説明したが、岩戸の形態をとっている。 右はしの碑石を叩けば開くようになっている。 その構造も脇から確認出来る。 しかしここは大変な危険をはらんでいる。 地球規模の異変が起るかも知れない。 それは天照大神尊は天をコントロール出来た神だからだ。 神話は全て事実を物語っている事を忘れてはいけない。 実際に、ここの地主が脇の岩を動かしたら、阪神大地震が起った。 私が岩戸を開いたら、スマトラ大地震が起った。 偶然とは言い難い。 特に12月22日付近の日は注意した方が良いだろう。
話が横道に逸れたが、ここまで分かってくると、岩戸には高天原の秘密だけで、金は本当に埋蔵されているのだろうか。 という疑問が起って来る。 これは本当に金は埋蔵されていると思う。 それは、諸澄九右衛門が掘り出した記録は他の内容が事実なので、信用出来る。 埋蔵金は間違いなくある。
しかし、岩戸をこれ以上開くのは大変危険と判断した。 前項で紹介した日月神示の警告があまりにも今回の出来事と一致しているからだ。 だいたい「富士山に天の岩戸があり、終末期が近づくとそれが開かれ、地震、災害が増えて来る」と日月神示に書いてある事を誰も信じないだろうが、私は信じざるを得ない。 現実に起った事が一致し過ぎてる。
神々の時代には、いまの科学ではとうてい信じられない技術が使用されていた。 私達が普段見ている山や谷も良く見ると自然の造形とは思えない物がよくある。 先日テレビで紹介されていた屋久島の山頂にあるトーフ岩など、どう考えたって誰かが造ったものだ。 巨岩を山頂まで運び、それをスパッと切ってある。 この様な物は日本全国至る所にある。
反重力は存在し、岩を割ったり、宙に浮かしたりの技術や生命創造の技術を神々は使用していた。 その内容は天の岩戸に隠されている。 岩戸を開くとは、「ひらく」の字が違い、「啓く」と書くのが本来の表現だ。 神武天皇が岩戸をひらいたときは啓の字が使われている。 私は岩戸を啓いて以来、数々の古代の技術の証拠を見せつけられて来た。 これは後日発表したいと思う。
ここ富士西麓に、人類のルーツ高天原は現在も続いており、その機能も失っていない。 もの凄い「力」と言うものを感じる。 それ故、富士山を世界遺産にとの声も高まってきた。 しかし、高天原の歴史を調べずして、世界遺産には成り得ない。 しっかりした国家プロジェクトで対応する必要が有ると思う。 その時は協力を惜しまない。
以上でお分かりの事と思うが、「宮下文書」は日本の歴史の真実を綴った記録で、それは日本建国の神々と高天原の真の姿を今に伝えるものだ。 私達の考えも及ばない6000年前の縄文時代に、日本建国に努力された神々の歴史を思うと、現代の人類のしている事は一体何なのだろうか。 ここに一つの疑問が湧いて来た。 人類創造の神々の高天原が無くなると言う事は、人類の滅亡を意味するのではないだろうか。 私達はそれすら忘れ去ってしまった。
最後に、宮下文書の末尾の一語を紹介する。 「ここに高天原復活のこと終わる」と。 痛恨の一言ではないか。 私達はこのまま高天原を忘れ去ってしまっていいのだろうか。
2005年12月13日
富士高天原坂下ノ宮 西富士オートキャンプ場
橘高 啓 記述
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